改善出来るだ
ショックだったけど、おかげで気をつけるポイントがひとつ増えた。
二十代ならば笑って済まされるだろう。
三十代なら幼稚なやつだとからかわれるかもしれない。
しかし四十代のボクが同じような表現では、どうやら「イタイ」って感じるらしい。
おそらくは年相応ではない行動や言動を目撃した人はその表現を「イタイ」と感じるのかもしれない。
ではそれを意識した所ですぐに改善出来るだろうか?
表現しているこちらはまさか人様が「イタイ」などと思っているとは露程も感じちゃいない。イタイ思いをさせてしまった彼の人には悪いけれど、自分の表現の何処に痛さがあるのか残念ながら自覚症状が無いのが現状だ。
自覚症状が無いのは怖い事だ。
こうしてなんだかまじめに書いてる文章も彼の人からみたら「イタイ」のかもしれない。。
なんてことを考え出したら何も出来なくなってしまう。
しかし考えてみたらそんなこと言う人は決まって何の表現もしていない。ひょっとしたら彼の人も、自分の表現では世間様にイタイ思いをさせてしまうと思っているのかもしれない。だからそもそも何もしない。そりゃ、それが一番安全だろうよ。
二十代ならば笑って済まされるだろう。
三十代なら幼稚なやつだとからかわれるかもしれない。
しかし四十代のボクが同じような表現では、どうやら「イタイ」って感じるらしい。
おそらくは年相応ではない行動や言動を目撃した人はその表現を「イタイ」と感じるのかもしれない。
ではそれを意識した所ですぐに改善出来るだろうか?
表現しているこちらはまさか人様が「イタイ」などと思っているとは露程も感じちゃいない。イタイ思いをさせてしまった彼の人には悪いけれど、自分の表現の何処に痛さがあるのか残念ながら自覚症状が無いのが現状だ。
自覚症状が無いのは怖い事だ。
こうしてなんだかまじめに書いてる文章も彼の人からみたら「イタイ」のかもしれない。。
なんてことを考え出したら何も出来なくなってしまう。
しかし考えてみたらそんなこと言う人は決まって何の表現もしていない。ひょっとしたら彼の人も、自分の表現では世間様にイタイ思いをさせてしまうと思っているのかもしれない。だからそもそも何もしない。そりゃ、それが一番安全だろうよ。
2014年07月21日 Posted by のぬは at 15:59 │Comments(0) │heiris
通勤することに
電車にしても道路にしても、空いているというのは大変結構なことで、羨望の眼差しこそ向けられ、毀誉褒貶されるような筋合いはどこにもあるまい。ラッシュ時に駅員が数人がかりで車内に乗客を押し込む大都会の様子こそ狂気の沙汰だと思うのだが、如何であろう。それに、地下鉄御堂筋線の梅田~淀屋橋間というのは、日本の地下鉄で最も利用者数が多く、かつては同様に200%を超える混雑率であったらしいから、これは並々ならぬ混雑緩和策が図られた結果なのであって、電車の混雑度で東高西低を云々されるのは心外の極みというものである。
田舎育ちの私は、かつては確かに電車で通学・通勤することに憧れた。「ご学友に屯されたくない」というのも言ってみれば方便であって、わざわざ電車通学するために大学から離れた場所に住んだ一面があったことは認めたい。しかし、満員電車に押し合いへし合いされるうちに、そんな憧れは幻想に過ぎなかったと思い知らされるのである。これから新生活を始めようとする若者たち、特に故郷を離れて都会に出ようとする者たちは、車内に立ち込める人いきれに毎朝接していたら早晩ホームシックにかかるであろうから、住まいを選ぶにあたって、この点は篤と心得られたい。
理想は、電車なんか乗らなくても、徒歩や自転車で通える職住近接であるが、都心のタワーマンションに自宅を構えられるような甲斐性なんて私にあるはずもないから、都会の人波に揉まれて疲れ果てた私は、せめて楽に、快適に通勤できる方法を見出したいと思うのである。
2014年06月26日 Posted by のぬは at 15:39 │Comments(0) │peritii
児童や生徒が
この例は管理者の怠慢母乳 原生營養 による放置ゆえの振り切った惨禍と言えようが、一般的には、トイレが汚いのは、清掃状況もさることながら、利用者にこそ原因があると思うのである。使えば汚れていくのは不可避ではあるけれども、それにも限度があるだろうし、一人ひとりのちょっとした注意で、一定程度の清潔さは保てるはずだ 。
例えば、学校のトイレが清魚油丸潔で無臭であるという例をあまり知らない。児童や生徒がいい加減な掃除しかしないこと、街中の施設と違って1日1回しか掃除をしないこともそれぞれ一因であろうとは思うけれども、それ以上に、そこを使っている子どもたちの汚し方が酷いに相違ないのである。特に小学校低学年のそれには凄まじいものがあって、「ぞうさんおおあばれー」などと叫びながら、ぞうさんどころか犬の鼻にも満たぬ未成熟な一物を振り回すとか、「めいちゅうさせるぞー」と言いつつ、遠くから便器に向けて射撃を試みるも、必ず外してしまうとか。子どもたちの無軌道ぶりは脂肪肝中醫ここにこそ極まると言えよう。
2014年06月26日 Posted by のぬは at 15:32 │Comments(0) │heiris
歌の調べに身
明け方の風を入れようとして窓を開ける、その一瞬の「ある日のわれ」との出会い。風にゆらぐ草に触れた、そのときの指に残るわずかな時間の感覚。それらは、風という外界と「私の影」が交錯して触れ合った一瞬であり、それまで自分でも気づかなかった新たな自分との出会いでもあろう。
新しい気付きが、大げさではなく静かに表出され 護士ている。
「自己主張できる「私」など表層的なものに過ぎない」と評者はいう。「私たちは、歌の調べに身を任すことで自ら気づかなかった「私の影」に出会う。」とDr Max好唔好。
ぼくの影はどこにあるのだろうかと、おもわず振り返ってしまう。
いまは雨が降っているのかもしれない。ぼくには、なかなか自分の影が見えない。
そうこうしているうちに、いよいよ年の瀬。
ことしから来年へ、きょうから明日へ。その境い目はないけれど、あしたという日がきょうよりも、新しい日であることを香港酒店管理學院期待する。
2014年05月27日 Posted by のぬは at 15:50 │Comments(0) │heiris
数えると5匹
冬枯れの草むらがざわざわと揺れて、まだらに白いものが動いている。
よく見ると、猫だった。
あっちにもこっちにも、数えると5匹もいる言語治療。
いつかの、あの子猫たちだった。たしか4匹だったはずだが、1匹は親猫かもしれない。いつのまにか親猫と見まがうほどに、子猫たちも大きくなったのだろう。
野良のままでずっと生き続けていたのだ。ぼくはとくに猫好きでもないが、久しぶりに見かけると懐しいし、それとなく子猫の行方は気になっていたので安堵した。
野良たちとは常に距離がある水解蛋白。
5匹の猫はそれぞれの場所で静止して、ぼくに視線を集めている。ぼくは警戒されている人間のひとりなのだろう。こころなしか冷徹な目で見つめられているような気がする。
かの著名な先生の猫のように、「人間とはよほど暇で退屈なものとみえる」などと、冷ややかに観察されているのかもしれない。
「足が4本あるのに2本しか使わないというのからしてぜいたくだ。4本で歩けばそれだけはかもゆくわけだのに、いつでも2本ですまして、残る2本は到来の棒鱈のように手持ちぶさたにぶら下げているのはばかばかしい」と。
そんな目をしている郵輪假期。
2014年05月27日 Posted by のぬは at 15:13 │Comments(0) │ねひの
洗面所がぴ
恥ずかしながら、確かに使ってしまうものがある。特に「一番最初」には、「最初」とは違うイメージを持っていたりする楊海成。
「不快感を感じる」はすぐに変だと気づくけれど、「返事を返す」や「過半数を超える」は無意識に使ってしまいそうだ。他にもいろいろ、見れば重複していることが分かるし、正しい言い方もできるんだけど、何気なく間違う可能性は高い。ニホンゴムズカシイ。
ちょっと心配なことがあった。かといって私にはできることがなかった。家で連絡を待っているしかない。そういう時はいつも、水回りの細かい掃除をする。いつもは手が回らない隅っこやら裏側やらを綺麗にする。そうしていれば事態がいい方へ行くと信じている……というより、そうしていれば、ただ心配しているより気が楽だ。今まで何度そんな場面があっただろう卓悅化妝水。
結局、心配は杞憂に終わり、洗面所がぴかぴかになった。
そうそう、神様がいるのはトイレだけじゃないし、べっぴんさんになるよりもっと大切なことはいっぱいあるのだ牛證。
2014年04月29日 Posted by のぬは at 13:17 │Comments(0) │ねひの
更新頻度が
頭の中がざわざわしていて、大して書くこともないのに書こうとする。
そうして、書いてからちょっとだけ何かしらの後悔をする中醫保健。
こういう時はアブナイ。
躓きそうな石ころが目の前に転がってくるに違いない。
ふと去年のことを思い出して過去ログを見てみたら、GWの前あたりから3週間近くなにも書いていなかった。
そうだそうだ、なんとなく覚えている。
そんなわけで文具公司、
しばらく更新頻度が落ちるかもしれません。
なんて、かっこよく断っておこうかな。
でも、まるで嘘になるのもいやなんだな。
たぶん書いてしまう激光脫毛。
2014年04月29日 Posted by のぬは at 13:16 │Comments(0) │ねひの
と無理を承知で言
私の中に、出したその手で片付けない面倒くさがり1号と 今目の前にあるものを片付けない面倒くさがり2号ともったいないお化けがいる。
最悪、最強のトリオ探索四十課程。
先日、ご近所のSOSで、外が寒いこともあり家の中でお待ちいただくことになり、、、、
この最強トリオによるグチャグチャの室内で寒さをしのいでいただくことになった。
「見なかったことに・・・」と無理を承知で言ってはみたものの、見なかったことにはならない。
以前住んでいた伊賀市の家でも、今住んでいる家の倍ほどは広かったけれど、やはり最強トリオの賜物で、それはスゴイことになっていた touch screen。
家の中をご覧になった方は「こら私でも、ちょっといかんわ(すぐに掃除できないほど酷い)」と笑っておられた。
まあそんな性癖があり、自分でも「汚いなー」と思ってはいても、目の前にあるモノを片付けるより、内職に手が伸びるし、春ともなれば、家の中より庭に出て草を引くほうが好みにあっている。
だから、した方がいいことより、今したいことが常に優先される。したくなことは限りなく後回し。
出したその手で片付けさえしたら、今目の前にあるモノはなくなるはずだし、残るのはもったいないお化けだけだとわかっていても出来ない=しない=日々を延々と繰り返している iphone skin。
後日、最強トリオの室内で過ごされた方に出会った時、お礼とともに「あんたとこルンバがあってもアカンな」とチクリ。
その言葉にすぐに笑い出した私だ。
2014年03月24日 Posted by のぬは at 12:52 │Comments(0) │ねひの
春はまだ遠いなぁ
昨日、あんなに介護中でも幸せだみたいなことを書いたのに・・・ごめんよ・・・4日ぶりに母が帰ってきたら、いきなり夕方急性ストレスでお腹をこわした私です。
情けない Classroom tablet
せっかく町内の排雪が今日の午前中に終わったと思ったら、お昼から吹雪いたもんね・・・あぁ~せっかく~きれいになったのに~
重機で丁寧に道路を少しずつ削っています。スッキリしたのはほんの2時間ほど。すぐさま道路脇に雪が積もりました。
春はまだ遠いなぁ~
夕方ショートステイから帰ってきた母は施設で書道の時間と豆まきの時間があったらしく、お土産を持ってきました。
その書道がとても素晴らしくて「本当に上手ねぇ~キレイな字だわ」と褒めまくったら italian wine・・・
その後、「硯で墨をすって書いたのは子供の時以来」「誘われてもへっちゃらで参加しない人がいて、私ってまだまともなのよね」このほぼ2点を立て続けに30回とか話しはじめました。
「うんうん」と聞きながら、1~2回は「さっきも言っていたね」とは言ったのですが、自分でもそろそろ限界か~と思ったら、先に身体が反応しました red wine。
いきなり下痢が・・・
ヨワッチイぞ私・・・
2014年02月07日 Posted by のぬは at 10:59 │Comments(0) │ねひの
絶好の墓参り日和と
名実共に秋がきた。秋分の日を迎えた昨日、関東平野を覆っていたはずの太平洋
高気圧は何処かに行ってしまったようである。そのお蔭で、朝晩がめっきり涼し
くなり「暑さ寒さも彼岸まで」は現実のものとなった。午後からは秋らしく穏や
かに晴れて、絶好の墓参り日和となった康泰領隊。
「秋分の日」と「春分の日」に限り、太陽は真西に沈む。昼間の長い夏の太陽は
、天高く軌道を描いて北西方向に沈み、かたや昼間の短い冬の太陽は、低い軌道
を描き南西方向に急降下する。つまるところ、常に西に沈むと思われがちの太陽
も、実際は「秋分の日」と「春分の日」にしか、真西に沈まない。年に二回しか
拝むことのできない貴重な夕日に、昔の人達は万感の想いを寄せていた。
なぜならば、西の彼方には極楽浄土があると信じられていたからである。極楽浄
土とは、三途の川の向こう岸にあることから、別名、「かのきし」と書いて「彼
岸」(ひがん)と呼ぶ。だから「彼の岸」を目指して太陽が沈みゆく貴重なこの
日を「彼岸の中日」と呼び、いにしえの人達は有り難がった。二十四節気のうち
、国民の祝日であるのは「秋分の日」と「春分の日」だけであることからして、
その思いは格別だったのであろう優纖美容。
「彼の岸」に夕日が沈むこの日、西の空が茜色になる頃、故人を偲んでは手を合
わせたに違いない。その思いが今日に至り、墓参りの習慣を生んだ。そのお墓も
、かつては概ね東向きに建てるのが一般的であった。東に向いたお墓にて手を合
わせれば、手の先は、おのずと西の彼方を向くからである。しかし今では、あま
り気にしないらしい。集合霊園では、そんなこと言っていられないのかもしれな
い。
古来からの精神文化が、じわりじわりと衰退していく昨今、「秋分の日」の夕日
が特別の夕日であることを実感する人も少なくなってきた意大利旅行。秋分の日が何故「彼
岸の中日」なのか、知る人も少なくなってきた。経済活動中心の人々の暮らしの
中で、そんなことに構っている余裕などないのかもしれない。極端な話、どうで
もいいのかもしれない。